遠山公子@フラワーデモ その4
ご通行中の皆様、こんにちは。
今日私は、キリスト教会で起きている問題について語りたいと思います。
今から20年前、男性の牧師が若い女性に性関係を強要し、自殺に追い込んだという事件がありました。
牧師は、父親を亡くして悲しみの中にある女性に対し、「亡き父の遺志である」などと言って牧師の活動のスタッフとして働くように誘いました。牧師は女性に毎日のように電話を掛けたり、キャンプなどの活動に女性を同行したりするようになりました。その中で牧師は強引な性行為にいたり、これは牧師の活動を支えるために必要なことだと言いました。そして、牧師である自分に無条件で服従するように女性に指示しました。牧師は、女性をその家族や友人から離すかのように、遠くに勤務させるなどしていました。牧師との関係を拒否して距離を置こうとする女性に対し、牧師は神への奉仕と自分への服従を混同させ、さらに女性に罪悪感まで植えつけて脅迫し、加害を続けました。
性暴力が始まって2年経ち、他の人にも性加害が及んでいることを知った女性は、自分の母親に被害を打ち明けました。母親は女性を家に呼び戻しましたが、女性は睡眠障害・摂食障害などにとても苦しんでいました。牧師のもとでの働きが医療現場に関わるものだったため、女性は病院や医師に対する恐怖が強く、治療をしようにもとても困難なものでした。
裁判になり、牧師には賠償金の支払いが命じられました。しかし、女性や母親に対して牧師から真摯な謝罪がされることはなく、女性はなおも牧師からの心理的な支配に苦しみ、とうとう自殺に至ってしまいました。母親は事件を実名で公表しましたが、心ない言葉もたくさん浴びせられました。
「もう終わったことではないのか」
「あれは特異な事件だったのではないか」
「いい加減、牧師をゆるしてもいいのではないか」
「いつまで被害者の声に耳を傾けなければならないのか」
そのような言葉に、母親は苦しみました。
牧師は性暴力について、裁判などでは「合意のもとでの行為だった」などと主張し続ける一方、教会でのメッセージにおいては涙を流しながら「自分の罪は神に赦されたと確信している。これからも伝道に邁進していきたい」などと話しました。牧師のメッセージを聞いた教会の人たちの中では、許してもよいのではないか、いや許されるべきではないなどと考えが分かれ、混乱が起きました。
「牧師が自分にこのような行為をするという事実が理解できない。牧師が間違うはずはない」このような認識は、被害者本人だけでなく、被害を知った周りの人にも起こります。そして、混乱を回避するために、周りの人たちは被害を過小評価する、あるいは被害者を責めるという行動に出る傾向があります。
日本はクリスチャン人口がとても少なく、キリスト教会は閉鎖的な部分もあり、性差別や暴力の根絶に向けた運動が盛んな今日、時代遅れの事件が起こっていても、表に出されることはとても難しいのです。
私自身、性暴力には至っていませんが、牧師である父から10年以上セクハラをされていました。そして、このような牧師に対する先入観、教会の閉鎖的な構造に苦しんでいました。
キリスト教には、「愛する」「赦す」という教えがあります。本来は自分のおかした罪を心から悔い改め、みんなで仲良く生きてお互いに成長しあっていくための教えです。しかし、それが加害者を擁護したり、怒る被害者を安易になだめようとしたりすることに使われてしまっています。
加害を容認し、被害者の言葉に本当に耳を傾けないで建前だけの和解を大切にするのなら、暴力や犯罪は決してなくなりません。それらがなくなることこそ神様の望まれることだという認識をクリスチャンたちが強め、愛や赦しといった教えの本当の意味を、一人一人が考え続けること、教会のなかに閉じ込められている問題を、こうして外に発信していくことが、とても大切だと考えています。
性犯罪は性欲の解消ではなく、相手を支配することに本質があるのであって、それは本来あるべき愛する人との性的な結び付きとは根本的に異なるものです。
被害を受けたあなたが、汚れたり何かを失ったりするわけではありません。あなたには、たった一つのあなただけの人生があります。自分で選んでいい道があるのです。望むのであれば、愛する人と結ばれ幸せになる権利もあります。
性に関する世の中で当たり前とされる考えに対して、それは違う、本当はこうなんだということを、私も発信し続けたいと思います。
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