「オスの目セクハラ」~父親の目線が不快~

「性的虐待」というと、触る、暴力など、あからさまな犯罪行為をイメージする人が多いと思います。しかし、「触る」に至らないセクハラもあります。

私は大学生の時、岩月教授の著書『娘がいやがる間違いだらけの父親の愛』に出会いました。その中での調査により、女性たちにとって「オスのような目で見られた」などの父親からの“軽微な”セクハラが父親を嫌う最大の理由であったという結果が出ています。そうしたセクハラによって、娘には、強烈な男性不信が発生する、自分に落ち度があったと思ってしまうなどの悪影響があるといいます。

「何をしたか」ではなく、「どんな気持ちでそれをしたか」が重要なのだと、岩月先生は述べています。父親の方は「ただ見るだけじゃないか。セクハラのうちにはいらないよ、まして親子じゃないか」、「自分の娘なんだから、たまにはかわいいなぁと思ってみることもあるさ」といった気持ちであったり、そもそもいやらしい目をしたという自覚がなく、自分はいつも父親らしいやさしい目をしていると思い込んでいたりするといいます。しかし、そんな父親の“軽微な”セクハラにより、娘は強姦されたくらいの傷を受けることもあるというのです。

こうした“軽微な”セクハラについて、聞いたこともない人が多いと思います。父親がセクハラに鈍感または無自覚である一方、娘の方も「自分の勘違いかもしれない」「単なる思い過ごしかもしれない」と自分に言い聞かせてしまうと、本では述べられています。

私も父親からセクハラを受け始めた頃から、大人の男性を「生理的に嫌だ」と感じたり、「からだの成長が嬉しくて、胸が目立つ服の着方をしていた自分が悪かった」と長年思っていたりしていました。セクハラを「親子の愛情」の中に組み込む、「気のせいだ」「気にしすぎだ」という考えを私も両親から押しつけられ、何年もの間セクハラ被害を誰にも話すことができませんでした。
父親に見られるとき、体を触られるのと同様の気持ちがしていたので、「見られるのも強姦されるのも同じ」というこの本の記述には、しっくり来ました。
娘側の気持ちは、実際に被害を受けた人ではないとなかなか分からないかもしれません。しかし、このような感じ方をする娘は「敏感な部類に属するのではなく、むしろごく普通の感性の持ち主なのである」と先生は述べています。

この記事で紹介させていただいた本が書かれたのは2000年、私が物心ついた頃です。この本にあるような、父親のセクハラが娘に与える影響についてもっと社会が敏感であり、父親と娘が本当に正しく信頼関係を築くことができるようになっていれば、私が10年以上にわたり父親からのセクハラに苦しむことは全くなかったかもしれません……

「性的虐待」「セクハラ」は、あからさまに悪意のある接触や暴力のみを示すのではなく、加害者が被害者をどう見ているか、どう扱っているかということ自体であり、態度や言動一つ一つに表れるものであると、私は考えています。相手を支配欲や性欲の対象として考えていると、それは必ず相手に感じとられるのだと思います。

私のありのままの気持ちを綴らせていただきましたが、世間のお父様たちにとっては脅しのような記事になってしまったかもしれません。
大切なのは、娘を自分と同じ一人の人格として本当に尊重することだと思います。ただ「触らない、暴力をふるわない」というだけではなく、心の底から本当に娘を大切にするという気持ちを持ち続けることです。「触りさえしなければ犯罪ではない」という考えは、もってのほかです。
支配欲や性欲など、娘に対して向けるべきではないものを向け、それらの「欲望」を満たそうとしても、お父様自身が満たされる、幸せになることは決してありません。娘の幸せのため、そして、お父様自身の幸せのため、対等で本当に信頼しあえる親子の絆を、ぜひとも築いてください。

父親からセクハラを受けている娘たちは、どんなに“軽微”でも「嫌だ」という自分の正直な気持ちを大切にしてください。いやらしい目で見ることも、強姦することも、加害の根本にあるものは同じであり、あなたの傷が「軽い」「気のせいだ」なんてことは、決してありません。
この社会は「大人」に有利なようにできており、子ども自身もそうした「大人」の考えを知らないうちに取り込んでしまうのです(私もそうでした)。自分の辛い気持ちを、正直な言葉で大きな声で発信し続けることで、やっと「大人」と対等になれるくらいだと思います。「被害妄想だ」「親不孝だ」などの言葉に、決して負けないでください。

岩月先生の本の趣旨は、父親の間違った「愛情」が、娘の人生、特に恋愛や結婚に関する部分を狂わせてしまう、というものです。先生が大人の男性でありながら、ここまで父親のセクハラについて娘の立場に立って綿密に分析されていることに、驚きました。しかしやはり、被害当事者としての娘の視点については、完全ではないところがある感じがしました。たとえセクハラを受けても、生きている限り、娘には自分らしく恋愛や結婚をする、しない権利があり、そうする力があります。父親からの一切の悪影響を断ち切ることができるのです。
私も自立して引っ越してきた先の町で、私を本当に尊重し見守ってくれる「パパ」のような存在の人たちに出会い、ドラマやお話に出てくる父親と娘の絆が少しずつ分かるようになってきています。

必ずしも私のように盛んに発信したり告発したりしなくてもいいと思います。この記事を読んでいるあなたが一刻も早く被害から離れ、自分に合う方法で心の傷を癒し、幸せな人生を歩めることを祈るばかりです。

やまのむこう

遠山公子の、虐待や差別問題に特化したサイトです。性差別、児童虐待、キリスト教界における問題などについて発信。

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