日本一醜い親への手紙 遠山公子
あなたたちに恩も尊敬も、一つもないと思います。
「パパ」「ママ」と親しみを込めて呼ばれることを拒み、親には敬語。言葉遣いに関しては、兄が言っても怒らないことを私や妹が言うと注意してくる。「男言葉」と「女言葉」があるというのが、一番明確な性差別だと思います。
お父さん。体罰セクハラ牧師。小さい頃から何かにつけて私のお尻をめくって叩きまくりました。「子どもには体罰が必要だ」と言い、教会の週報にもそれを堂々と書いていました。9才の頃、胸が膨らんできたのを見て、自分自身の胸に両手を当てて高い声で「私おっぱいが膨らんできたの~」と、家族全員いる食卓で言ってきました。そのあとも、私の下着の汚れの話をお母さんとしているときに口を押さえて笑ったり、お客さんが食事に来たときに手伝いをたくさんやらされた時に「私ホステスじゃないんだから」と言うと、こっちを見てずっとクスクス笑ったりしていました。いやらしい口調で「かわい~い」と言ってきたり、私の向かいや隣になると喜んだり、写真やビデオをしつこく撮ってきたり。体罰を受けていたので、怒られると嫌だから「嫌だ」とはっきり言えませんでした。黙って父を避けるようになった私を怒鳴ったり叩いたり蹴ったりして叱り、お母さんも全く私の気持ちを理解しません。お父さんもお母さんも私の態度のことで嫌みを言い、教会で笑いの種にしたりもしました。お父さんはあいさつやアイコンタクト、愛想よくすること、笑顔を見せることまでも執拗に求めてきました。お父さんの目線もしつこく話しかけられるのも、私には体を触られるのと全く同じように感じられました。兄を見る目と、私や妹を見る目が明らかに違い、私や妹をしつこく目で追うように兄にもしているのを、私は見たことがありません。女の子の「可愛がり方」が尋常じゃない。知り合いの女の子がレストランで普通にしゃべっているのを動画に撮っているし。その動画、彼女にフィードバックしているとは思えません。間違いなく自分で見て楽しむため。女の裸が何ページにも渡って出てくる漫画を買ってきたこともあったし。お父さんが何か性的に感じられる行動をとる度、「あ、やっぱりこういう人なんだな」という確信を強めていきました。
私が自立する数ヵ月の間に、私をリビングに呼び出して長々とした「話し合い」を2回させました。実家にいる限り、お父さんは私を眺め放題、話しかけ放題でした。無料の風俗嬢にさせられているみたいでした。「話し合い」の中で、お母さんは自分がクリスチャンでない親のもとに育ったことなど自分の「かわいそうな身の上」のことを、涙声で話してきました。私のことを「クリスチャンホームでぬくぬく育って…」と言ってきましたね。聖書の言葉を用いて体罰や男尊女卑を正当化する牧師やクリスチャンの何と多いこと。うちもその立派な一つでした。私はお父さんとお母さんが謙虚にただ必死に神様に祈っている姿を見たことがありません。お父さんの祈る声は、なだめるような、「俺が頭だ」みたいな声でした。自分の権威のために祈りや聖書を用い、子どもなどをマインドコントロールしようとする。都合の悪い人を悪魔呼ばわりする。片親の家庭や妻の方が年上の家庭を裁き、「両方親がいる」うちの家庭を感謝するように再三言ってくる。「感謝しろ」で、問題や子どもの悩みをないがしろにする。私は絶対に騙されません。
「親とこのままじゃ一生幸せになれないからな」とお父さんは言ってきました。あなたたちにとらわれるのをやめない限り幸せにはなれません。
自分のしていることをセクハラだとは認めず、「親として愛情を注いでいる」などと言う。私がお父さんを避けることについて「いつやめるんでしょうね~、誰がこうさせたんでしょうね~」と。最初に胸のことをからかったのは、私が小さい頃に胸が大きくなることへの憧れをつぶやいたのに答えたんだと言い張ります。まっとうな人なら、たとえ娘がそういうことを言っても、そんなところには目を向けません。そんな卑猥なことを言われて喜ぶ女に育ってほしかったんですか。いや、そんなことまで考えてないでしょうね。ただ娘を自分の欲望のままにしたいだけ。
クリスチャンの学生団体や、他の牧師などに出会っていなかったら、私はほぼ間違いなく信仰を捨てていたと思います。本当は神様は男女が対等に生きることを望んでいて、イエス様は女性や子ども、貧しい人など、社会で弱いもの扱いされている人に積極的に寄り添った。それも知らずに「これは性差別ではない。神が定めた秩序だ」と、不幸な人生、「弱者」を虐げながら自分の権威を保つ人生を選んだ人たち。
お母さんはお母さんで、暴力を振るったり、冷たい言葉を浴びせたり、子どもに嘘をつくことを厳しく禁じておきながら矛盾や嘘を重ねたり。そのくせ「被害者」「いい人」ぶることが非常にうまい。それはお父さんもそうで、だから教会に人が来る。教会の大人の人たちは「先生、先生」と牧師を無条件に敬う。「先生、ご立派ですね」は必然的に、「先生のお子さん方みんな素晴らしいですね、先生方が立派な教育をされ、愛情をたくさん注いでおられるのですね」につながる。私いい子じゃありません。立派な教育も受けていません。
生まれてから22年経ってやっと自立できたものの、トラブルが起きたときにお父さんはは連絡もせずいきなりアパートに来てしつこく世話を焼いてきたし、お母さんは緊急の用事に見せかけて連絡してきて、どうでもいいことでだらだら説教してくる。私が電話に出ないから、とうとう職場にまでかけてくる。「メールやトークだと文章に残って他の人に見せるとかできちゃうから電話じゃなきゃダメ」「ストーカーすればいいのか」って。自分で悪いことしてるの分かってるんだ。隠そうったって無駄なんだよ。
キリスト教では「赦し」が通り一編に説かれる傾向があります。相手を憎んだり自己憐憫に陥ったりするのをやめて神様の裁きに委ねることは大切です。でもその「赦し」を「許し」、つまり、相手の行動を許容してしまうことにつながってしまっている人たちが、あまりにも多いんじゃないか。それでその人は、さらに他の人の気持ちを無視したり傷つけたりしてしまうんです。無意識のうちに。
自分の過ちを認めず相手が変わることを要求し、相手を支配しようとする、そんな人を「愛によって変える」ことはできません。「親と和解する」「仲良くする」ことで、親が「やっぱり自分たちが正しかった」と思ったり「体罰も性差別もセクハラもOK」ということつながったりするのなら、私は絶対に許さないし、関わらない。たとえ親であっても、関わりを断たなければいけない時がある。
「どんな親でも愛情がある」「親子の絆は何より尊い」そんな話は、信じません。親子の絆も愛情も、元々自然にあるものではなく、自分で作り出していくものだから。
食べ物もお金もたくさん与えられてきたし、お出かけに連れていってもらったりおもちゃを買ってもらったりもしてきた。でも、それらも結局虐待を正当化するために振りかざされた。逆に言えば、物を与えることしかできなくて、親として本当に必要な子どもへの働きかけとか、本当の信頼関係を築くとか、全然できない人たちということだな。いただいたものは今も大切に使わせていただいてますが。親を通して出会ったものを享受したり、そこから才能を伸ばしたりしてきたのは、私の能力や性質であって、あなたたちのものではない。別個の人間の性格、性質まで自分のものだと思うのは、どうかしているんじゃないでしょうか。
親の教会で最後に出席する礼拝で、私は前に立って「この教会で感謝すること」を話させられたけど、きれいごとを手短に話すだけで本当のことが言えなかったのが、教会に来ている皆さんに嘘をついているようで、本当に辛かった。言いたくない。これまで私のために祈ってくれたりおいしいものをくれたりした皆さんの、ショックを受けた顔や悲しむ顔なんて見たくない。教会に、混乱をもたらしたくはない。
私は今、大好きな町でおいしいものやすてきなものに毎日たくさん出会って、幸せに暮らしています。やらかすことや大変なこともあるけど、自分らしく、のびのびと歩んでいます。これまでずっと自分を押さえていた大きなストレスがなくなったから。もう、お父さんに支配欲や下心のつまった目線を向けられようが、お母さんにしつこく連絡されてこようが、馬鹿だな、幼いな、としか思わない。学生団体の友達や、この町で関わる人たち、たくさんの人が、私の親についての経験話に共感してくれたり、励ましたりしてくれたりしています。一番理解してもらえるところが、今通っている教会であることが、本当に感謝です。「味方になってくれそうな人に話しているだけだろ」とお父さんは言いましたが、それはもはや私ではなくてその人たちを傷つける言葉です。日常の中で人にも話しているし、SNSでも積極的に発信しています。いろんな人に分かりやすく伝えること、問題を明確化させて社会を変えることをより意識した文章を書くため、日々鍛えています。
加害者の特定や糾弾ではなく、問題をなくして社会を変えていくことが目的だから、私は匿名で活動しています。親をかばうことが目的ではありません。親が非難を浴びようが教会がつぶれようが、私は知ったこっちゃない。ただ、みんなが怒りや憎しみに閉じこもったままでは、何も変わらない。教会だって、神様のために建てられたものなのなら、暴力や差別がなくなって、誰一人傷つくことのない、本当に良い場所になってほしい。神様が正しい執り成しをしてくださいますように。
私はただ、離れたいだけ。仕返しをするのでもなく、暴言や暴力に走るのでもなく、きれいさっぱり縁を切りたいだけ。
さようなら。自立した人を追いかけてまで「親」であり続けようと必死になるの、いい加減やめた方がいいですよ。私にも周りの人たちにも迷惑だし、あなたたちも疲弊するだけだし。私のことなんか忘れてください。あなたたちの記憶から消えてしまいたい。特にセクハラしてきたお父さんの頭やカメラやパソコンから。
死ぬまであなたたちの顔を見たくないし、声も聞きたくありません。
さようなら。性差別なんかしなくて、本当に信頼できて、変に見栄はろうとしない、本当に人間らしい両親のもとに生まれたかった。
私がそういう親になります。もう一回、一からやり直します。「親子の普遍の絆」とか「母の愛情」とか、「男らしさ」「女らしさ」「父らしさ」「母らしさ」といった神話に、決してとらわれずに。
被害者に居ても立ってもいられないような深い傷を負わせ、妻や周りの人たちとの関係をおかしくし、何より加害者自身を破壊するセクハラを、私は絶対に許さない。
妻に当たり散らし、息子に強くなることを強要し、娘を犬や人形やおもちゃのように扱う、家父長制は極悪非道。
あとがき
最後まで読んでくださってありがとうございます。
この手紙は、こちらの本を参考に書かせていただきました。
「日本一醜い親への手紙」
http://letters-to-parents.blogspot.com/?m=1
手紙を書いたのは親元から自立して1ヶ月半経った頃、ストーカーぶりがひどい両親と一切の連絡を断った直後のことでした。まだまだ心が不安定だったし、その中でありのままの気持ちを書き表しました。
今は親を思い出して憎しみや自己憐憫に陥ることはほとんどなくなりましたが、まだ心のどこかで癒えていない部分があったり、知らないうちにおさえこんでいる感情があるかもしれません。これからも時間をかけて自分を癒していきたいし、社会から一切の差別や虐待をなくしていきたいです。
辛い家庭で育った方は、短くてもいいので試しに書いてみることで、自分の気持ちや言いたいことが整理できることもあると思います。隠れていた気持ちがあらわになることもあると思うけど、あまりに大きくて耐えきれなかったら、無理に向き合おうとしなくてもいいと思います。ゆっくりでいい。自分のペースで、自分の言葉で、正直な気持ちを出していけばいい。どうぞ何のためらいもなく、自分をいたわってあげてください。
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